長州藩vs幕府軍 京の都が戦火に包まれた「禁門の変」
新選組6大事件 第6回
永倉が先頭に立って突入すると、必死の長州兵は抜刀して向かってきた。永倉は池田屋で受けた手のひらの負傷がまだ完全には癒えていなかった。そのためいつものように刀を扱うことができず、敵の刀を受け損じて指先に負傷してしまった。
それでもなんとか4、5人の敵を斬り倒すあたり、さすがは永倉だ。残りの敵は、かなわぬものと見て逃げ去った。
やがて長州軍は総崩れとなり、開戦から1日ともたずに退却していった。乱戦の中で、久坂玄瑞、入江九一らの逸材が戦死しており、長州藩は池田屋に引き続き大打撃をこうむったのである。
翌々21日には、戦争の首謀者ともいうべき真木和泉(久留米)らの軍を追って会津藩兵とともに山崎に向かい、天王山の山頂に追いつめている。山頂の真木が戦国武将のように名乗りをあげると、山の中腹に陣取った新選組からは、「われは徳川旗下の者にて近藤勇と申す」と応えた。
これが戦闘開始の合図となり、真木軍は山上から鉄砲を激しく撃ち放つ。新選組側にはほとんど銃砲装備はなかったから、永倉と井上源三郎が銃弾を受けて軽傷を負った。
しかし、やがて鉄砲の弾が尽きると、真木らは攻撃をやめ、山上にあった山小屋に駆け込んだ。そして小屋に火薬を仕掛け、17人の志士全員が爆裂の中で自刃をとげたのだった。
近藤らが山頂に着くと、まだ火がくすぶっている小屋に真木らの遺体が並んでおり、その潔い最期には新選組の者も感心するばかりだった。
こうして禁門の変は終結したが、戦の最中に京都の町に広がった火事は、3日間燃え続け、市街地の3分の2にあたる3万戸が焼失した。せっかく池田屋事件のときに浪士たちが企てていた京都焼き討ちを阻止したというのに、それと同じ結果になってしまったことは残念というほかない。
長州藩は御所に発砲した罪によって、以後、朝敵として扱われることになり、長州人は一切、京都に立ち入ることを禁じられるようになったのである。
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